天上の海・掌中の星

    “真昼の漆黒・暗夜の虹” 〜幕間
 



          



 気がつけば、暦は十月に入っており。いつまでも延々と“残暑が厳しいですね”と言い続けていた時候の挨拶も、朝晩の冷え込みにご注意くださいに変わっており。どこからか香る金木犀の香りに、深まりゆく秋を実感する日々が訪れている。

  「行ってきま〜すvv

 元気よく玄関から飛び出した制服姿にもブレザーの上着が加わっており、ボタンを止め忘れているせいで、裾が軽やかに跳ね上がってる。そんな坊やへ、
「ちょーっと待て、ルフィ。」
 制止の声がかけられて、
「ネクタイ、忘れとるぞ。」
「え? あ、そか。」
 わざわざ結ばなくても良い、フックで止めるワンタッチタイプのものだが、それでもついつい忘れがちなアイテムで。門扉を出たばかりの辺りで、たたらを踏みかけて立ち止まった坊やの小さな体に追いついて。後から出て来たお兄さんが、まるでオリンピックの金メダルでも授与するかのようにして。伸ばした長い腕を坊やの首の後ろへと回し、シャツの襟の下へネクタイを吊るすための細いベルトを添わせてやる。胸板の手前という至近にて、彼が正面を見ていたなら首を落としてやっと覗き込めるという低い位置にある稚
いとけないお顔が、何とも擽ったげな表情を浮かべている。くっついてはないけれどあまりに近いから、大きな手の温みが頬に伝わって来て、擽ったく感じられて仕方がないらしい。あまり器用そうではない手が、襟をおり直して整えて。
「ほれ、出来た。」
「サンキューvv」
 構ってもらえたことが嬉しくて仕方がないと、満面の笑みで表して。ニッコニコの笑顔のままに飛び出してく小さな高校生。真っ直ぐな通りの結構向こう、最初の角を曲がるまで、ついついその背中を見送り続けてしまっていた家人であり、
「………。」
 日頃は精悍で頼もしいばかりな彼だというのに。何とも感慨深げな表情を浮かべており、つと我に返って家の中へと入って行った背中が、こちらさんはどうしたものか、少々小さく見えもした。





 先の騒動から、半月、2週間が既に経っている。サンジが施した“意識結界”の作用のおかげで、珍しくも貧血を起こして倒れてしまったがため早退した彼を案じる者はいても、少々不自然な“移動”をしたルフィだったことへ注視した者はおらず。翌日と翌々日の代休の後、それはお元気に学校へ出て来た彼へは、クラスも白組も優勝したよと、嬉しい報告が降りそそがれて。さあお次は文化祭だ、頑張ろうねと、俄然 盛り上がっているのだそうで。

  「よお。今、ビビちゃんから連絡があったぜ。」

 メイントレイを布巾2枚で挟んで磨きつつ、キッチンから顔を出したのは、家中に満ちている朝陽の明るさの中、その金髪の色合いが淡く軽やかに際立っている聖封殿で、
「駅でいつも通りに会えたとよ。そのまま学校までついてってくれる。」
「ああ。」
 短く応じ、キッチンの入り口より少しほど奥のサニタリー部へ足を向け、洗濯機の稼働状況を確かめる。専任の料理当番が来ていることを除けば、いつもと何ら変わらない朝であり行動なのだが、交わされた会話は先の騒動が起こってから慌ただしく立ち上げられた手配に他ならず、
「…いい加減、その不服そうな顔は止しな。俺はともかく、ビビちゃんやたしぎちゃんには失礼だろうがよ。」
 ルフィが居た ついさっきまでは、何とか穏やかな表情でいたくせに、あっと言う間にこの無表情。別に愛想を振り撒けとまでは言わないが、空気が重くなるような不貞腐れようはなかろうよと、そう思ってのお言葉であるらしく、
「別にお前らに不服な訳じゃあない。」
 低い声で返したゾロへ、

  「ルフィを“囮”にしてるようで、どうしても…笑ってられんってことか?」

 ひょいっと、手首のスナップを効かせて背後へ放られた陶器のお皿が、かちりとも鳴らぬまま、ふんわりと流し台の食器受けへ収まって。そんな動作のついでのように持ち出された一言へこそ、破邪殿の表情が硬く強ばる。だが、
「言っとくけどな。これは坊主が望んだことだぞ?」
「囮になるとは言ってない。」
「ああそうだな。学校に行きたい、これまでと変わった過保護な庇われようはしたくないって、坊主はそう言った。だったら、せめて護衛代わりの監視はつけさせてくれって言ったまでで…。」
「だからっ。」
 ゾロだとて判ってはいるのだ。何も、巧妙に“ルフィの側から言い出した”という形へ持って行った彼らではないことくらい。出来ることなら…それこそ“天聖界”へ連れてって、しばらくの間だけでも匿いたいほどの気持ちでいる彼らだのに。
「身代わりを立てての“囮”作戦を取ろうって構えてたの、ルフィが先読みしたらしいしな。」
「…何だ、気づいてやがったか。」
 あんな騒動を起こした“真犯人”をあぶり出さねば、コトは収まらない。ならば…そいつをおびき出せばいいと、むしろ“ルフィの身代わりを立てる”という作戦を構えていた彼らだったらいしのに。そこまでを気づいていたのかどうなのか、特別扱いされるのは嫌だとどうしても譲らなかったルフィであり、

  『何かサ、お嬢様じゃないんだし。』

 そんな悠長なことを言ってる事態じゃないんだと言いかかった、破邪見習いの たしぎを引き留めたのは、サンジの一族から派遣されて来た封印能力者のビビで。どれほど恐ろしいことなのかをわざわざ言ってやって尚のこと怖がらせてどうするかと、そんな制止を速やかに繰り出せる心遣いの持ち主が、坊やの傍らに付いて日中の監視役を担当してくれている。
「気が気じゃないのはお前だけじゃねぇ。それに、だ。何かあった時には、お前にこそ一番に立ち働いてもらわにゃなんねぇんだからな。」
 だから、ピリピリしてんじゃないと言いたいサンジなのだろう。本来だったなら放っておくか“ごちゃごちゃゴネてんじゃねぇ”と喧嘩腰になるか、少なくとも男を相手にここまで気を遣う奴じゃないのにと、そんなことを推し量れる自分の、結構落ち着いてはいる部分に宥められ。止まったことを伝える洗濯機の電子音に呼ばれて、気だての優しい相棒へ背中を向ける、破邪の男であったのだった。





            ◇



 正体不明の召喚師に目をつけられたルフィだと判明したのが先の騒動で。判っているのは二つ。まずは、その召喚師が“人間”であるらしいこと。図らずも陰体を陽世界に招いてしまう“土地”や“物体”というものは結構ある。何の加減か、そういった傾向を帯びた“間合い”になってしまった空間やら存在やら。そういった場合は、社
やしろや塚という目印を敢えて設け、祀まつられることで人をむやみに寄せないようにするという配慮が施されるし、そもそもが無機物、意志などない相手なのだから関わらぬよう注意すればいい。問題は、誰ぞの意志でもって陰体が召喚されるケースであり。陰と陽と、本来相容れることの不可能な世界同士の存在が接することなぞ容易に出来る筈もなく。凄絶な精神力にてそれが出来たとしても、せいぜいが一回こっきり、尽きんとしている命を懸けてという、根深くも壮絶な恨みや呪いを込めての召喚となるのが実例だったものが、同じ人物が数度にも渡っての召喚を成功させているという。ちょろっと運気を変えるためだけの小さな小さな精霊もどき、陰世界への窓の蓋を開くことで術者が帯びた電解作用を対象者へ分けてやる…というような小技がせいぜいな筈の“拝み屋”の中に、そうまでの力を持つ者が現れようとは、誰も想像だにしなかったこと。そしてもう1つが…。

  ――― ルフィの間近にいる誰かであるということ。

 全国大会などにも結構顔を出した子ではあるが、それで見初めて遠路はるばるやって来た者ではあるまい。こんな言い方は色々と思うところを掘り返しそうではあるがと前おいてから、サンジが言うには、

  『これまでに起こっている同じ人物の仕業らしき“召喚”が、
   ここのご近所、日本の関東地区に集中していて、
   尚且つ、先の“黒鳳凰”騒動の直後から始まっている。』

 考えたくはないけれど。あの騒動の余波を受けた者がここいらの人間の中にいるのではないか。それも、そういう…魔界だの黒魔術だのといった方面へ関心があったような種の人間だったら? 人間にだって、ルフィがそうであったように霊感の強い存在はいるから、何事だろうかと不審に思ってアンテナをこちらへ向けていたものがいないとは言い切れない。殊にルフィが攫われた夜などは、結界のエキスパートたちが張り巡らせた守護の陣をやすやすと掻いくぐれる存在が陽世界へと現れたのだ。一瞬のこととて影響は大きかったろうから、その余燼を受けた者がどうなったかは想像がつかないほどであり、
『自分の力として操れるようになるまでのトレーニングを積みつつ、一体何が起こったのか、誰が核になっている出来事なのかを、そういう方面からの視点で探った者がいたとしたなら。』
 それ以降は…小者の襲撃は已ないとして、さして大きな騒動にも巻き込まれぬままに恙無い生活を送っているルフィではあれど。それでも…震源地として見逃せない存在であるという目串くらいは立てられたのかも知れない。一年以上も沈黙を守って来たのではなく、それなりの調査・探査を重ね、気を練り、満を持してようよう動き出したということか。そういうことへ鼻を利かせてる余裕があるんなら、自分たちの人間社会の暗部を何とかする方向へ働かさんかいと、忌ま忌ましげにぶうたれたサンジだったのはともかく。


  “何も言ってない内から 感づいてやがって。”


 他の誰でもない“ルフィ”を狙っている手合いだと、彼の前では一言も、ほのめかしという形でさえ言ってなかった筈なのに。たまたま彼の前へ置かれた封筒にあんな札が入ってただけのことだと解釈せず、自分をこそと狙ってる奴がいるんだろと、ルフィは自分から言い出した。そして、

  『だったら良かった。俺にはゾロやサンジが付いててくれるもんな。』

 何にも知らない、勝手も判らない子だったらどうなってたか。それを考えたら、俺が狙われたんで良かったじゃんか。彼自身がそんな風に言い出してのこの現状。一見、以前となんら変わらぬ日々を送りながら、護衛の数を微妙に増やし、監視体制を強化して。相手がもしも次の手を打って来たらば、そこへ全員で躍りかかって捕まえてやるという、万全の態勢にあるのだけれど。

  “………。”

 ルフィが呑まれたあの瞬間。正直なところ、生きた心地がしなかったゾロだった。是が非でも倒さねばならない相手だったのに。そうしなければルフィは…悪くすれば あんな獣魔が現世での存在を保つための苗床である“寄り代”にされかけていたというのに。そんな状況下にありながら、そんな切羽詰まった事態だと、素早く、的確に、認知しておきながら。………なのに、その対象を“和道一文字”で切って捨てるという行為が、どうしても出来なくて。
『何してるっ!』
 サンジからさんざ怒鳴られ、檄を飛ばされ。しまいには怒らせてでもと構えた上でのそれだろう、ドギツイ悪態をつかれても。頭の芯が凍ったようになったまま、全身の感覚に膜が張ったようになり、手が…動かなくなって。

  “………。”

 外観は牛の頭をした下等な化け物だったが、その中には間違いなくルフィがいた。精霊刀は基本的には陰体にしか対応しない。よほどのこと一体化してでもない限り、陽世界の存在には仇をなさない。意識をすれば尚のこと、まるで空気のように風のように、触れても感触さえないほどの代物になってしまう、そんな刀であったのに。しかも、ゾロ自身には…ルフィが何処に居るのかも、どんな状態なのかもありありと見えていた。羽交い締めにされて押さえ込まれるのと同様な形で、意識を閉ざされ、無防備にも眠っていたルフィ。意識下に拡散しているとか、神経系への細かいアクセスを受けつつ就縛されているとか、そんなややこしい状態ではなかったのだけれど。それと分かっていたのなら、尚のこと、その大切な少年を避ける格好で幾らでも容易く倒せたろうがと、後からサンジに尚の蹴りを食らってしまったけれど、それでも。手を下すための覇気が高まらず、逆に全身から血が引くような、そんな喪失感に襲われてしまって身動きが取れなくなったのだから仕方がない。

  “情けねぇ話だよな、実際。”

 大切なもの、守りたいものが出来ると、そこが急所になりやすい。だから、術師としての力を極めたければ、物への執着や煩悩を断って淡々としているのが最良とされる。ビジネスライクにしか接していないものへなら、失おうが壊されようが、さほど心揺すぶられることもない。逆に、何か1つへの途轍もない執着を枷やバネにし、それへ触れられると他へは動じない分までの剛力を出せるという例もあり、これは特別な修養を積まなくとも可能な場合が多い。愛する人のため、窮地にあって信じられない力を放つというのは良くある話で、

  “……………。”

 これまではずっと、前者の側の心持ちで過ごしていた自分だったのに。世の調和を歪ませる存在をただただ抹消し、修正を施していただけだったのに。それが命あるものでも、意志を持つものでも関係なく、また。巻き込まれるものが出ても、多数を生かすためのささやかな犠牲だと断じて、容赦なく一緒くたにした斬り捨てて来たのだけれど。初めて心動かされる対象が出来て、何とも稚い健気さに、この自分こそが守ってやらなくてどうすると。無駄に馬鹿力を発揮しているばかりでなく、こんなことへこそ注いでやろうやと甘い気持ちを抱いたのも束の間、

  “………。”

 果たしてルフィは、そんな自分に初めて出来た急所…なのだろうかと。思わぬ形でそんな考え方と出食わしてしまった破邪殿の表情は、あれ以降もすっきりと晴れないままであったりするのだ。





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